横断幕の話
前回、横断幕に書かれた「努力は素質を超える」
「努力(家)に勝る天才なし」という言葉について
思っていたことを書き、
努力とセンスは別物だから比較対象にならないよって話をしました。
「努力は素質を超える」
素質って誰の素質?って話なんですけど
同じチームの人の素質(切磋琢磨しよう)
自分自身の素質(自分で自分を超えていこう、これがいちばんしっくりくる)
それに加えて
相手チームの素質も指すのではないかと思うんですよね。
横断幕の場合は、試合で掲げるわけですから
各上のチームと戦うときに相手チームに挑む姿勢を書いてる場合もあります。
強いチームの横断幕はオリジナリティもあるし
実際に行動が伴っているから格好よく見えるんですよね。
ほかにも覚えている高校の横断幕は強豪ばっかりだなぁ。
横断幕を当時はこんな風に見ていなかったので
自分のチームの横断幕の言葉を今振り返ると
あ、うろ覚えで印象にないや。
センスのなさを努力で補う?
春高バレーを見ていた。
場所は東京体育館だろうか?
バスケットボールをやっていたときに
ウインターカップを観戦しに2度程行ったことがある。
とても広い体育館には壁一面に出場チームの横断幕が飾られており、そこにはチームを鼓舞するというか、チームの信念となる言葉が力強く書かれてあったのをおぼえている。
春高バレーをテレビで見ていて、東福岡の金子くんの見ていて爽快なスパイクと同じくらい、横断幕に書かれた言葉が気になった。
努力に勝る天才なし
どこの学校かわからなかったけど、画面の端に映った横断幕にはそう書いてあった。
どうして気になったのかというと、
自分が中学生の頃、憧れていた高校バスケの強豪校の横断幕には
努力は素質を超える
と書いてあって、似ていたからだ。
この話を友達にしたら
努力は行動を指す言葉だけど
天才は人を指す言葉だから比較対象としておかしくない?
と言われたので、努力(家)に勝る天才なしと考えることにする。
努力は素質を超える
努力(家)に勝る天才なし
本当にそうだろうか?
中学生の頃までら、努力は素質を超えるという言葉を信じていたし、下克上な姿勢が格好良くて好きだった。
そんな横断幕を掲げる強豪校の監督に、バスケが上手になったら入学したい!と14歳の頃から言っていた。
15歳になったとき、その強豪校の練習に参加した。監督とお会いし、いよいよ入学に関する話ができると思っていたが、監督は私を見るなり
君、1年前から背が伸びてないね。
と言った。
私は結局、別の高校に行くことになった。努力で素質は超えられないのだと悟った。バスケット観戦をたくさんして、年齢の割にスポーツを見る目が肥え過ぎたのかもしれない。自分でも素質のなさを受け入れることができた。
テレビの中で活躍する高校生は
努力は素質を超える
この言葉を純粋に信じることができたのだろうか。
最初は私のように信じたかもしれないが、次第にその言葉通りにならないことに気がついたはずだ。
ただ、
それを分かっていながら、騙されて一生懸命に練習できる素直さや、その言葉にすがる純粋さを彼らは持っているのだと思った。
自分で自分を洗脳させる力のような、彼ら特有のパワーは大人になると不思議と弱くなっていくから、とても羨ましく思いながらテレビを見ていたのだった。
この言葉はずっと才能のない私に向けて書かれたもののように思っていた。
素質ある越境入学できた選手もいるけれど、諦めないで頑張ってくださいねという気遣いのように感じるのだ。
こんなことをグダグダ考えても、結局は努力してようがしていまいが、チームに貢献してくれる人がコートの上に立てるのだ。
このままではなんだか悲しい話になってしまうので、私がドイツの射撃コーチに聞いた話を書いておく。
努力でセンスは補えない。
でもセンスで努力も補えない。
これら2つは質が全く異なるものだから。
そして、努力とセンスだけで勝てるほどスポーツは甘くないのよ。
運も必要なの。
努力×センス×運
そういった考え方をしてるのよ。
この話をしてもらったのは5年くらい前なんだけど、最近ようやく努力とセンスの質の違いを理解できるようになった。
どんなに料理の腕があっても食材の質を上げることはできないのと同じような感じだと思ってる。
努力でセンスを補う話はよく聞くから、
自分の実力は足し算で考えるんだと思ってたけど、センスで努力を補う話は聞いたことないし、足し算方針にモヤモヤを感じていたのが、いやいや掛け算だよとコーチに言われたことでようやく測り方を理解することができた。
今回横断幕のことを考えて、
横断幕の深さ的なものも知れたので
また今度続きを書く。
これは絶対書く。
それにしても
東福岡はスポーツが強いなぁ。
確認は大事
年の瀬でテレビが面白かったりつまんなかったりしますね。
保育園に通ってた頃、親の仕事が忙しかったこともあり絵本とビデオをたくさん与えてもらってました。
ビデオはもっぱらビデオ1で借りてました。そこは今のTSUTAYAみたいに綺麗じゃなかったんです。
ビデオ1は汚ったなくて、店員は何故かみんな小汚い疲れたお兄ちゃんでした。髪も長くてあぶらっぽいし、ヒゲも生えてる。
子供が来る場所ではないな、という感じが子供ながらにわかりました。
だからそんなお店に足を踏み入れるのもなんだか特別なことのように思えたのです。
今でもたまに汚いレンタルショップを見かけますが、懐かしさを感じてしまいます。
ビデオ1で借りていたのは
「うちのタマしりませんか」。
3丁目に住む色んな人に飼われている猫たちの物語り。
銭湯の猫や、野良猫、あ、そう。犬も出てるんでした。
これを借りるきっかけは、近所のお姉さん(小学校高学年?から中学生くらい)の家に遊びに行った時に見せてもらったのがはじまり。時々切ない話もあり、大泣きすることもありました。
他には、なぜかティムバートンのストップモーションアニメなど。
「ジャイアントピーチ」
「ナイトメアビフォアクリスマス」
5.6歳の頃には見てた気がします。
どうして同じ監督のアニメを見てたのかは分かりませんが、母に聞くと「だいたい全部自分で選んでもってきた」とのこと。
ビデオ1の棚の配置がそうだったんでしょうか。
同じ監督の映画を意図せず選ぶなんてにょっとカッコいいじゃないか、と子供の頃の自分を一目置いてみたりなんかして。。。(^^;;
これだけ鮮明にビデオのことを覚えているのは、
うちのタマしりませんか
も
ティムバートン
も
どちら
も
見るには早すぎる年齢で見てしまったからなのでしょう。
パンチ強すぎて記憶に残りまくり、
当時は夢に出てきまくり、
歌とか未だに覚えてます。
特にジャイアントピーチは本当によく夢に登場しました。大きな桃に乗って冒険に出るのですが、ナイトメアより怖い映画です。てゆーかジャックも一瞬登場してます。
私はそんな小さい頃の経験から、
時々シュールだったり、
怖かったりする映画も好んでたまに見るようになりました。
するとお母さんは「絶対リビングで見ないで、私の目の触れないところで見て。なんでそんなの見るのよ。」
なんでそんな好みになったんだか、みたいなことを言います。
結構前にも書いてますが、小5の頃に夜中にホラー映画を1人で再生してました。
でもさ、お母さん。
ほとんどのビデオを自分で選んでた、
と言うけれど
1つだけお母さんから酷いやつ勧められたことがあるんだよ。。。
1991年に公開したロビンウィリアムズのフックです。これも保育園時代に見てました。確か大人になったピーターパンの話?だったかな。とにかくフック船長が恐ろしすぎるのです。子供部屋をフックであける仕草が怖かったようなそうじゃなかったような。
それを見た夜は外からフック船長がくるんじゃないかと怯えてました。
フックを使って家のドアを開けて入ってくると思い込んで、ガムテープで玄関をガチガチに止め出たような気もします。
そんなコワイ作品をよくもまぁ対して確認もせず
「これ、ひーちゃん好きだと思うの」
と言って持ってきたもんだ
「どこがー!!!!!好きなんだよおおおおおおおお!!!!こわ、こわいよおおおおおおお!!!!ややややめてよおおおお!!!!ばかああああ!!!!」
と嗚咽たっぷりに泣きながらお母さんを殴りにかかった記憶があるので確かでしょう。
確かにピーターパンは好きでした。
でもそれはアニメーションで可愛いやつだもん。
実写版はまったく別物だよ。
そんなにこわいと思ってなかったのでしょうね。
悔しいのは、ビデオは1人で見てたので
お母さんが未だにフックの恐ろしさを知らないことです。題名からして怖いよね、とは言ってたけど。
あとジュマンジも見せられたな。
ロビンウィリアムズ推しか?
子供の頃、受ける影響ってデカイので
見せるビデオや本はしっかり確認しないとダメです。
今日はDVDを3本(3枚?)みました。
昔のお母さんのことを少しだけ思い出したのでメモ程度に。
今度フック借りちゃおうかな。。
お餅の好きなところ
お餅が好きであることを説明する
まず、私の好きなお餅とは
丸くて柔らかいお餅である
硬いやつじゃなくてつきたてのプニプニ。
イメージ的には雪見だいふくってアイスみたいな感じである。
その丸いお餅の何が好きかって
まずは形である。
あの絶妙な平べったさとホペッとした丸さ。あと見た目から触りたくなるような柔らかさが伝わってくるあの佇まい。
おもち、ですよ。と確かな存在感をだしている。
クッキーとかなんかお菓子を作るときに耳たぶくらいのかたさになるまで、と生地の柔らかさを表現するけど、その耳たぶくらいのかたさの生っぽい質感のものは大抵すきである。
次に「おもち」って名前である。
「もち」じゃない。「おもち」。
まず3文字だから言いやすくて物足りなさもなくて語呂がいい。
あと音がかわいい。
どんなに怖い人が言ってもかわいくなる。
舌ったらずな子供が言うとお餅と一緒に食べてしまいたくなる。
それに関連すると「おもちゃ」って音も好き。でもおもちには勝てないのである。
3つめ、のびるところ。
おもちがのびるときの擬音は
びよーんでものびーんでもない
もちーん、である。
軽々しくのびない。
あの少しの粘りと質量がびよーんとものびーんとも違った伸び方をする。
もちーんはとても気持ちよさそうにのびる。
そして、
ぺったんぺったんやられているお餅は
ポヨンポヨンしているように見える
ぺったん!ポヨン
ぺったん!ポヨン
ぺったん!ポヨン
お餅は力強い衝撃をポヨンにかえる優しさを持ち合わせているのだ。
私がお餅がすきだという理由を卒論の逃避行として書きました。
ここまで話しといてなんだけど
実はそんなに好き好んで食べない。
2年に1回くらいきな粉つけて食べるくらい
過激派インスタグラマー
※ちょっぴり過激な話
Twitter中毒者です。
本垢1つに
女の子しかフォローしない乙女垢1つ
好きな芸能人にリプを送る垢1つ
計3つのアカウントを使いこなすほどの。
気がつけば
5分に1回くらいのペースで見てるときもあって、流石に時間を無駄にしてるな、と感じアカウントを全部消した。
どこかで聞いたことがある、
Facebookはスーツ
mixiは私服
Twitterはハダカ
Instagramはきっと「オシャレな私服」だろう。
本来、画像は長方形だったはずなのに
Instagramが流行りだしてから
スクエアを使う人が増えたように思う。
バズ、とかではなく、流行りを作れるし。
字数制限がないのに一行くらいで画像の説明をしたり、ちょっとカッコよく英語で書いたりするし。
あと、ユーザーのほんの少しの見栄や自慢がみえるし。
うん、インスタはオシャレ。
Twitterを辞めてから、
ブログやInstagramに潜む時間が増えた。
オタクっぽさや
炎上
笑い
遠くの友人との繋がりが今はちょっと恋しい。
Twitterから得ていた刺激はやはり大事だった。
失ってみると気がつく。
時々、身に覚えのない
いやらしいアカウントにフォローされるビックリ感を、ちょっと楽しんでいたのかもしれない。まぁ、恥ずかしいからブロックするんだけど。
たまに見る友人のメンヘラツイートは、実は嫌いじゃなかった。
インスタやFacebookに物足りなさを感じたので、
試しにInstagramから過激さを見出してみた。
ハッシュタグの機能を使って
まずは、
#おっぱい
と。
想像したおっぱいはほとんどでてこない。
「これはおっぱいです」
という意味ではなく
「コイツはおっぱいが好きです」
といった意味あいの画像が多くでてきた。
そうか、この人、おっぱいが好きなんだ。
まぁ嫌いな人はほとんどいないでしょう。
それにしても、
オシャレなビキニ姿の女性もでてこない。
お行儀がいいのな、インスタ。
じゃあ今度はメンヘラを炙り出そう。
#リスカ
#リスカは#おっぱいよりも数が少ない代わりに、#おっぱいのようなフェイクはなかった。
画面いっぱいに、知らない人の自傷行為の数々が並べられていた。
別に人のリスカが見たかったわけではなかった。
ただ、メンヘラっぽい言葉がこれしか思いつかなかった。軽い気持ちで検索したことを後悔した。
画像の手首はカッターで切ったところから
血が玉のようにじんわり滲み出てきている。
これは間違いなく作り物ではない。
本当のリストカットだ。
治る過程まで撮っている人もいる。
おっぱいを見せたがる人はInstagramには少ないけれど
リストカットを見せたがる人は意外といたのだ。
しかも綺麗に見えるように加工が施してあり、オサレな文を添えているところには「のんきだな、おい!」とツッコミを入れたくなった。
写真撮る前に止血しなさいよ。
徹底して見せ方にこだわるのはさすがInstagram。
オチは特にない
視点を変えたら復活した
今日、イエスを携えてみた
あー、二度寝しちゃった。
私ってダメだなぁ。
あんなに寝たのにまだ眠いし、本当サイテー。
『よいですか、ダメな自分を許し、そして愛するのです。眠たいのなら気の済むまでお眠りなさい・・・』
授業の大半をネットサーフィンして過ごしちゃった。。学生失格。テスト乗り越えられるか不安。。
『己を責めてはいけません。テストの時はきっとその時の自分が頑張ってくれるはずです。さぁお次はインスタを開くのです』
自分を許し、愛しまくってくれる
イエスのような人が隣にいると
妄想したら、気分転換になって
取り敢えず暗い気持ちではなくなったよ。
これがイエスの教えだとは思えないけど。
私の心の中のイエスは私のことを許し、愛してくれるあまり褒め称えてくれることもあって、
学校へ行くと
『おお、素晴らしい!なんと勇気のある行いだ!学校へ行くだなんて!歴史に刻まれる英雄、あなたの人生にサチアレー!』
ごみをすてると
『なんと!?ゴミを分別して捨てている。あなたはもしや聖母マリアの生まれ変わりか、はたまた天界から舞い降りた天使なのか?おお、神よ彼女にこの世のすべての祝福を、アーメン』
ここまで言われると
気持ち悪い通り越して
調子乗っちゃうも通り越して
ありがとよ!俺まっとうに生きるぜ!
って新しい自分になる。
私も大概アホ。
この後はもう凄い勢いで復活しちゃうわけですよ。
生きる活力がドンドン湧いてくるわけで
そしたら
私は将来何者になりたいのか?
と考え出しちゃうし、
そのためには何をしたらいいのか
って人生を逆算する
アリガチな自己啓発とかも
やっちゃうわけで
もう
よく分かんないけど
元気でちゃうし、
新しい私をよろしくどーぞ!
ってなわけで!